遅ればせながら、引き続き高齢者行方不明問題の件。
この話でも気付いたのは、すべてに無謬を求める風潮が根強いことですよ。すべての戸籍が完全で、すべての国民の所在が確認されていることを求めるような報道が多いです。
無理だって。
1億2千万の国民の記録が全部完全に押さえられると思う?そんだけあれば、いろんな例外や予想だにしない人生を送ってる人もいるはずで、それを全部完全に確認しておくべき、というのは、原理原則としては正しくても、実態面では無理があるよ。
いや、もしかしたら可能かもしれないけど、可能にしようとすれば、今度はものすごいコストがかかるはず。役所の人が半年に1回国内すべての世帯を巡回して確認する、とかやったら、今の公務員の数では到底無理で、そのための費用は膨大になるよ。数万人だか数十万人だかに1件の記録の不備をなくすためのコストとして正当化できる金額ではないはず。そのくらいの記録不備は、望ましいことではないけれども、許容しておかないとしょうがないでしょう。
コストと便益の競争ですよ。どこまで完全を目指すか、その場合にかかる費用はいくらか。そのバランスをとって、最も便益の高くなる妥協点を見つけなくては。少なくとも、コストをかけまくって無謬を目指すことは正しくない。
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この手の無謬信仰って、けっこう見かけるよね。
たとえば麻疹の予防接種。何十万人に一人だか、予防接種による重篤な副作用が出たということで、それに対する批判に抗しきれず、予防接種自体を止めてしまった。結果、大人になって重い麻疹に罹る人が出てきたり、麻疹が流行して大学が休学になったり、外国から日本が「麻疹汚染地域」と看做されてしまったり。その社会的、経済的損失は、何十万に1例という副作用を避けるためだったとして正当化できる?私はできないように思うんですけど。タミフルの件も似たような話だったよね。
駅のプラットフォームにドアを付けるという件なんかも。プラットフォームから落ちたり、はみ出して電車に接触する事故があるので、電車が停車した時だけ開くドアをプラットフォーム側に付けましょう、という話。
都内の乗降人数の多い地下鉄の駅とかならば、事故率の高さとドア設置の費用を検討すれば、ドアは付けた方がよい、という判断になることも多いんでしょう。腐ってもまだ日本は豊かな国だし、ドアくらいなら設置する余力もある。
しかし、国内すべての駅に設置すべき、という主張はやはりおかしい。盲人団体などから主張されれば、面と向って「できません」と言いにくい事情は分かりますけど、乗降量や電車の本数から考えて、ドアの設置費用が鉄道経営的に正当化できない場合が多そうなのは素人でも予想できる。そもそも、乗降量の少ない駅ではホームから人が落ちて電車に接触、なんていう事故は何十年に1回あるかないかという話でしょうし、そんな事故を防止するために鉄道経営自体が傾いてしまったら元も子もないでしょう?
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消費者が王様、という日本社会においては、企業や役所に消費者である市民が無謬、リスクゼロを求めることを否定しない。それどころか、マスコミも一緒になってそれを煽る。それどころか、マスコミが先頭に立って煽ってる。こんにゃくゼリーの事故の一件とか、まさにそう。
それで、政府の方も「消費者庁」なんて屋上屋みたいな機関を作ってしまって、国民のわがままにおもねってる。
それはものすごくコストのかかることだし、もっといえば、無駄があまりにも多い。みんな、成熟した大人なんだから、もう少し考えようよ。
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ついでに、思い出したのは飛行機の設計。
これは限りなく無謬、リスクゼロを求めるべきと考えられる。たとえ100万回の離着陸に1回事故を起こす程度だとしても、世界中で毎日何万回も離着陸が行われているわけだし、事故ったときの影響の大きさを考えれば無謬を求めようとするのは当然だと思えるよ。
で、飛行機なんかで取り入れられているのは、「fail safe」という思想。どんなに厳密にやっても、やっぱり壊れる時はあるし、人為的なミスもある。だから、もしもの問題が起きたときに備えて、致命的な機構には必ずバックアップを設けるという考え方です。重要な装置は必ず複数の系統を用意しておく。
って、これって、「無謬を求める」というのとはちょっと違う気がするよね。「無謬ではないことを認めて、間違いが起きた場合でも事故に至らないようにする。」というわけで。
人間の考えること、なかなか賢いよね。
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